1.
 堅牢な門扉の支柱にひっそりと浮き上がる、取ってつけたようなボタンが、おそらく呼び鈴なのだと思う。
 そっと指先を押し付けるが、何の変化も生じない。音が鳴るわけでも、家人が応えるわけでもなく、最初からそうだったようにしんとしている。通電していないのだと気付くまでに時間はかからなかった。
 メイベル・リンドグレンは黒壁の屋敷を見上げる。
 心配と不安に何度も歪んだ眉が、今は一文字に釣りあがり、決意を示していた。確かな手つきで門を押し開き、来訪者の存在を知らしめるように靴音を鳴らしながら、玄関までの石畳を歩む。 
 
   ***

 ニュースでひっそりと報じられた、ある一家の行方不明の報は、翌日にはもう幻だったみたいに薄らいでいて、いつか見たような不祥事や、不幸なエピソードを持ち合わせた他愛ない事故の報道にまぎれてしまった。後で思い返せば情報の隠蔽が意図的に行われていたように、メイベルは感じる。
 友人は家族とともに姿を消した、らしい。
 考えつく限りの手段で連絡を試みたが彼女に繋がることはなかった。家族と一緒であれば、深刻に考えることはないかもしれない。何か事情があって住み慣れた土地を離れたか――しかし、友人の家族は一部の界隈では有名人だ。事件性を無視していいとも思えない。
 得られる情報は日に日に減り行く一方だった。
 メイベルは、じっと何かを待つ性分ではなかった。
「フランの家へ行く」
 そう言うと、同居人のパブロは巨体に似合わぬ小心さを垣間見せて、厄介なことになるかもしれないだとか、事件だったら自分まで巻き込まれるかもしれないとか、くだらない心配事を列挙して控え目に制止する。が、言い出したらきかない彼女の性分を理解して、ため息交じりに送り出してくれた。
 友人の名をフランチェスカという。
 特別親しいかというと、決してそうではなかった。
 メイベルのほうが一方的に彼女を構っていたのだ。もしかしたら、彼女はそれを迷惑に思っていたかもしれないし、ひょっとすると有り難く感じていたかも分からない。
 どちらにしろ、メイベルにとってはフランチェスカは友達だった。そう呼ぶことに躊躇いもなかった。人を遠ざけ、感情を露わにせず、まるで自動人形だと揶揄される彼女を、メイベルは気にかけたのだ。面倒を見たくなった。
 フランチェスカが一人で居れば駆け寄って隣に並んだ。
 根気良く、粘り強く、話し掛けるうちに次第に彼女の口からも話題を引き出すようになって、ついには笑顔のひとつも見ることが叶って、メイベルは内心喜びに飛び上がったのだ。

   ***

「笑った、今。笑ったよね? フラン」
「……笑っていません」
「うそ」
「……笑いました」
 学校の庭園は室内にあって、外気よりも高い温度に保たれている。この国には無縁の春の気温に似た環境を、しかし体感することはなく、ガラス越しに眺めながら昼食を取る。
 円形の庭を囲うサロンの、四人がけのテーブル席。向かいに座るフランチェスカは口元を押さえて不服そうにメイベルを見上げた。
「もしかして、家ではもっと笑うの?」
 俯いて、長い髪に表情を隠してしまうフランチェスカは、僅かに頷いたようだった。
「学校でも笑えばいいのに」
 学び舎を共にして一年経つが、フランチェスカが感情を表に出すことは珍しい。勿体無い、とメイベルは思う。だって笑うとこんなに人懐っこくて、かわいくて、あったかいのに。
 もう一度笑ってほしいな。そう思って、なにがきっかけで彼女が笑ったのかを思い出そうとするのに、予想外の出来事だったせいで直前の他愛ない会話の内容が思い出せない。
 本当に、ふとしたきっかけだったのだ。
「……そうすると、友達ができてしまうから」
「え? 何?」
 聞こえなかったわけではない。
 意図するところがわからなくて、思わず聞き返していた。
「笑うと、友達ができてしまうから」
 だから何だ、とメイベルは思う。
「……それ、困るの?」
 もしかしてと問いかけると、彼女は小さく頷いた。それが一年もの間、彼女が頬を強張らせてきた理由らしい。
「友達、欲しくないんだ?」
「あまり」
「なんで?」
「わたしは、」
 ――そう遠くない将来、この世にはいないだろうから。
 フランチェスカは呟く。
 一度も笑ったことなどないように無感情な顔を上げた。
 こうして見ると、彼女を自動人形だなんて揶揄する言葉は的外れだと思う。なぜなら今時の自動人形はどいつもこいつも感情豊かで多弁で好奇心旺盛で、うざったいくらい人間に関わろうとプログラムされているのだから。
 じっと、黙って、旧時代のお人形のようなフランチェスカを自動人形と呼ぶのはナンセンスだ。
「死ぬ、の? その予定が、近々ある……?」
 動揺交じりの質問にフランチェスカは頷き返した。
「だから、仕方ないの」
 それきり、唇は一文字のまま、二度と開かないみたいにぴったりと閉ざしている。 
 ――仕方ないの、友達がいても、すぐに死んじゃうから。
 ――説明は、以上。
 メイベルは彼女の言葉が真実なのか冗談なのか、見極められないままに、冷たい面を見つめる。整った顔立ちをして、それを生かさないままの仮面のような無表情。
 長い髪はまっすぐに伸びていて、全体的に鋭利な印象だ。冗談を言うようには思えないその顔を見ているうちに、メイベルは心細くなっていく。
「死んじゃ嫌だよ、フラン」
 意図せず、言葉は素直に響く。
 我ながら迷子みたいで恥ずかしい口ぶりになった。
 メイベルは希うようにフランチェスカを見つめる。
 その無感情な顔に浮かぶ少しの変化も見逃さないように。はたして、
「……笑った、よね? 今」
「……笑っていません」
「うそ!」
「笑っていません」
 きゅっと唇を引き結んでしまう。
 フランチェスカは意地っ張りだと思う。でも、この学校でおそらく一番最初に、あたしが彼女の笑顔を見たんだ。そう思うと嬉しくてメイベルは笑った。
 だからそれきり、あの言葉はわかりにくい冗談の類だと信じていた。

   ***

 ドアロックも通電がないのか、あっけなく来訪者の侵入を許した。
 暗い廊下を歩み出し、メイベルは慎重に絨毯を踏む。
ふいに、意識はある扉へ向けられる。腐臭を嗅いだ。そう思ったときには扉を見ていた。あの向こうから臭いがする。
 途端に心臓がどきりと打つ。
 まさか、誰かが死んでいる、なんてことはないだろうな。
 思い切って扉を開けると、思い描いたような凄惨な光景はなく、ありふれた食卓が広がっている。
 ただし、磨かれた食器の上の食物は全て腐って、時の経過を示していた。食事はなぜ中断し、放置されたのか。解読の鍵を探して部屋を眺める。
 倒れた椅子、零れ落ちたカトラリー、転がる瓶、饐えた匂い。
 そもそも、フランチェスカは、ここで食事を摂ったのだろうか。分からない。名残はひとつもなく、気配は霧散している。和やかな食卓から家族全員が忽然と消えてしまう、怪奇的な空想に身震いした。
 メイベルは部屋をあとに、再び廊下を歩む。

   ***

 メイベルは上機嫌だ。
 先日の会話を反芻してはだらしなくにやついている。
 ――『あまり』って言った。友達はあまり欲しくない。
 ということは『少しは』欲しいという意味だ。
 ――やった!
 だったら、あたしが立候補だ。
 メイベルは心に決めて、平素以上にフランチェスカに付きまとう。時々は履修していない講義にも顔を出して、ひとりで座る彼女の隣にこっそり腰を下ろして驚かせたりもした。メイベルのいたずらに慣れっこになると、フランチェスカは少しだけ柔らかく笑うようになった。
「弟を思い出す」
「弟、いるの? いくつ? かわいい? 生意気?」
「甘えん坊なの。自分じゃ言い出せなくて、わたしが気付くのを待っているような子」
「大人しいんだ?」
「まわりくどいの。あなたに少し似ている」
「うそ! そんなことないよ、フラン、あたしフランの隣で講義受けたいな、一緒にご飯食べたいな〜。今度の休日暇?帰省するんじゃなきゃ、遊びに行こうよ」
 露骨なアプローチに困ったように笑う。
 笑った。困り顔だけど。でも、無表情は追い出した。
 それがメイベルには嬉しい。ちょっとずつ、フランチェスカが人形から人間になっていく、そんな気がする。
「休日には必ず帰省する決まり。ごめんなさい、メイベル」
つれない返事が嬉しかったのは、はじめて名前を呼んでもらったからだ。
 こっそりと、フランチェスカの柔らかな声で響く己の名前を耳の中で反芻する。
「じゃあ、平日に、講義をサボって行こう」
「それは……考えておきます」
 以前だったら一蹴したような誘いも、今はこうして一考の余地を残してくれる。思案するような吐息に笑みの萌芽を混ぜて答えてくれる。
 縮まった距離感が、少しだけ打ち解けたことが、メイベルを舞い上がらせていた。

   ***

 人の気配は感じられない。
 この家には、もう誰もいない。
 廊下の奥へ進むほどに強く感じる。しんと張り詰めた静寂が耳に痛い。廊下の先を塗りつぶす暗闇が重たい。
 ドアというドアを開けて、部屋をあらため、住人の痕跡や行方の手がかりを探すものの、ひとつとして有益な情報は得られない。他者の住まいに不法侵入して、今更何をやっているのだろう。
 フランチェスカは、ここにはいない。
 連絡もつかない、会いたくても会えない、どこか遠くへ姿を消してしまった。
 友達だと思っていたのは、きっと、自分だけだ。
 メイベルは唇を噛み締める。はっきりと、悔しかった。
 彼女に関われなかったこと、力になれないこと。悩みがあるなら聞かせてほしかった。危機が迫っているなら、助けを求めて欲しかった。
 ただ、フランチェスカにとって、メイベルは頼もしい相手ではなかったのだろう。そう思うと、無力感に膝をつきそうになる。情けない。
「フラン! フランチェスカ!」
 黙っていると不安に押しつぶされそうだ。
 己を鼓舞するために声を上げる。呼びかけは廊下を駆け抜けて、やがて静寂に飲み込まれてしまう。
「どこにいるの? 応えて! フラン! 会いにきたよ!」
 答えがないか、耳を澄ます。
 些細な物音も聞き逃さないように神経を集中する。心の底から彼女の返事を、己の名を呼ぶ声を待ち望んだ。
「あ――」
 聞こえたのは、疲れ果てた蝶番の軋みだ。
「……そこに、いるの?」
 ほんの僅かな音を追って、廊下の奥へ進む。そこにドアがあった。うっすらと開いた扉の合間から闇が覗く。
「フラン?」
 静かに呼びかけて、しかし返事は来なかった。メイベルはドアノブを掴んで、そうっと、扉を押し開ける。

   ***

 フランチェスカ・スノウリングが自動人形とあだ名される理由は二つある。
 ひとつは極端な無愛想から。
 もうひとつは、彼女の両親に由来する。
 両親は二人ともそれぞれに実績のある自動人形開発者だ。
 母親はこの学校の出身者で、以前には講師も勤めていたらしいが、近年は夫妻連名で大きな開発を進めている。
 彼らの作り出した新しい感情表現機能《ボックス》は従来の自動人形の表情変化を飛躍的に発達させると大きな期待を受けて、時折メディアでも経過報告が発表される。
 勿論、将来は自動人形に関わる職に就くつもりのメイベルも彼らの研究に注目していた。
 自動人形開発の一人者と言えるような夫妻が親ともなれば――それで無愛想な振る舞いをしようものなら、揶揄のひとつも言いたくなるだろう。
『あの子はほんとうは自動人形なんじゃないか?』なんて。
 でも――そんなの、自動人形にもフランチェスカにも失礼だし、どちらのことも良く知らない人が用いる冗句だとメイベルは思う。
 自動人形だったら、笑うべき局面で笑い、怒るべき局面で怒る。そうすることが人間味を演出すると予め知っているのだ。人に話し掛け、会話をたくみに運ぶ。
 それが一般的な自動人形だ。
 フランチェスカは自動人形よりも不器用に受け答え、笑うべきときに笑みを潜め、怒るべきときに怒りを飲み込む、難儀な少女だった。誰かの友達でいることが、自動人形よりも下手なのだ。
 しかしそれこそを、メイベルは好ましく感じていた。
 軽薄な人間関係を築くことはなく、慎重に相手を定めて、認めてくれる。良く解釈すると、フランチェスカの態度はそう受け取れる。理屈もなく、理由もなく、好ましさだけを動機に――フランチェスカの友達でいたかった。
「あのさ」
 いつも通りの昼食を、いつも通りに学舎のサロンで摂る。
『いつも通り』と言えるほどに回数を重ねたことをメイベルは少し誇りに思った。
「フランの笑いのツボを、見つけだしたよ」
「そう」
 淡白な返答から昔のように冷たい響きは消えている。話を続けて、と促すような相槌だ。
「弟の話題に弱いよね。あたしが弟に似てるとかさ、弟を思い出すとき、よく笑う」
「……そう?」
「そうだよ」
 今も、ほら。
 表情が和らいだ。彼女にとっては、弟は特別な存在なのだろうと容易く推察できる。
「好きなんだね、弟のこと。そういえばさ、名前は?」
「アレックス」
「ふむ。アレク。顔は、フランに似てるでしょ、きっと。なんだか想像つくよ」
 彼女が休日のたびに必ず帰省するのも、彼の存在が理由かもしれない。そう思い当たって、ちょっとだけ、嫉妬心を抱く。
「歳、離れてるの?」
「弟は、いま十歳」
 それはさぞかし、かわいい盛りだろうな、とまた想像を膨らませた。自然と頬が綻んでしまう。弟のことを思い出し、フランチェスカも微笑んでいるのではないか。
 期待して見上げた顔は、しかし陰りを帯びていた。
「フラン? どうしたの」
「あの家に残しているのが心配なの」
「やだ、そんなに過保護だったの」
 面白がるように答えると、それきり、フランチェスカは言葉を潜めてしまう。メイベルは己の言葉選びを後悔した。
 話の続きを引き出す術を見つけ出せずに沈黙が続く。
「ごめん、からかっちゃった。弟のこと、心配事、あるの?」
「いえ……目の届かない場所にいるのが、不安なだけ」
 それが過保護のためか、他に理由があるのか、寡黙な彼女の少ない言葉から推測するのは難しい。
 もし前者であれば、微笑ましい限りだ。後者であれば――何か力になれると良いのだが。
「なにか、手伝えることあったら、言ってよ?」
「……」
 無言の末、不意に噴出して、フランチェスカは笑った。
 息をかみ殺すような、くつくつ言う笑い声だ。必死に頬を強張らせて我慢してもしきれず、きれいに整った歯が色の良い唇の合間から覗く。
「え! なに、笑うところ? そのツボは、わからない」
「なんだか、メイベルの振る舞いが自動人形に見えたの」
「うそ!」
 大人しい者を自動人形に例える表現は判る。
 だが、自分のようにお世辞にもお行儀の良いとはいえない人間を例えるには不適切だと思う。
「だって。お役に立てますか? って、自動人形は聞いて回るでしょう。お喋りだし、よく笑うし、働き者で。メイベルは、自動人形に似てる」
「それは……そうかなぁ」
 自動人形の気持ちを理解しようだなんて思わない、けれど――そう言うフランチェスカの言葉の響きから、彼女は好ましい意味でメイベルを自動人形に例えたのだと判る。
 言葉の意図するところはさておき、メイベルはひっそりと喜んだ。

   ***

 部屋を通路のようだと思った。幅の狭い、奥行きの深い間取りだ。壁にそってずらりと椅子が並んで、それぞれに誰かが座っている。
 反射的に息を呑んで、すぐに自動人形だと気付いて体から力を抜いた。あやうく声を上げるところだった。
 メイベルは改めて己のなかに怯えが根ざしていると気付く。心を奮い立たせて部屋の奥へと歩む。
 それらを自動人形だと認識すれば感嘆の吐息も漏れた。
 すごい、こんなに沢山。
 自動人形の研究者の家なのだと説得力を感じる。
 一般家庭で自動人形を購入する場合、資金的にも敷地的にも、せいぜい一機か二機だ。それをこんなに。
 きっと用途に応じて専属の自動人形を利用していたのだろう。意外なほど器用さを持ち合わせていない自動人形だが、それぞれ専門に特化させた個体を用いれば、人間の手をほとんど借りずに家の仕事が済む。
「あっ……」
 椅子に座る自動人形たちの顔を覗き込みながら歩いて、今度こそ声が出る。
「フラン――」
 戸惑いがちな唇が、その呼び名を阻むように歪んで、声は小さく消えていく。呼びながら、メイベルは同時に理解していた。フランチェスカではない。自動人形だ。
 あるいは、フランチェスカが本当に自動人形だったか。
 いいや、違う、そんなはずない。
「……自動人形」
 良く似ていた。顔立ち、体つき。これで、振る舞いや声や喋り方まで似ていたら――先入観なく、目の前に現れたら。
 自動人形だと見破ることは出来ただろうか。分からない。
 自動人形は頭を垂れて、基本的な充電体勢をとっている。精巧な複製人形に圧倒される一方で、心臓を刷毛で撫でられるような不快感が消えない。知人に似ているから、だけではなくて――自動人形は見覚えのある服を着ていた。
 フランチェスカの服だ。
 本当に、フランチェスカではないのだろうか。
 学園に来ていたのは、もしかしてこの自動人形かもしれないじゃないか。いいや、そんなことはない。
 馬鹿げた考え事はやめよう。
 フランチェスカは確かに人間だったし、自動人形がそうまでも違和感なく人間と対人関係を結べるようには、まだ出来ていないはずだ。
 ふ、と、吐息の気配。
 メイベルは意識する前に首をめぐらせ、聞こえた音に反応を示す。呼吸の音が、した。
 この部屋の自動人形のなかに、本物の人間が紛れている。
 直感がそう告げて、己の判断を信じて奥へと踏み出した。
 次第に、予備品なのだろう、自動人形不在の椅子が並ぶ。この先に人の姿はない。踵を返して引き返し、一歩目を踏み出したところで歩みを止めた。
「きみ」
 椅子に、腰掛ける、ちいさな体。骨の浮き出た膝から痩せたふくらはぎがぶら下がっている。
 男の子だ。気がつかなかった。
「……アレク。アレックス、なの?」
 自動人形と間違えることはない。
 彼の体からは匂いがしたから。
 清潔さに欠いた、何日もシャワーを浴びていない、服も着替えていない、生きた人間の生々しい体臭だ。
 呼ばれて、男の子はぴくりとだけ動いた。返事もしない。でも、間違いない。きっと彼はアレックスだ。
 フランチェスカの弟、甘えん坊の男の子。そのはずだ。
 スノウリング一家全員が行方を消したのだと、メディアでは報じていたのに。
「あたし、フランチェスカの友達。メイベル・リンドグレン。フランに会いに来たのだけど……」
 行方を聞くどころではないと感じた。
 観察しているうちに、アレックスの状態が明らかになる。
 乾いた唇。栄養を欠いた髪。そうっと覗き込むと、瞳も精彩を失って、茫然自失の表情がそこにあった。
「アレックス? いつから、ここに、こうしているの?」
 話しかけても言葉を理解しているのか不安に感じた。
 答えを待って、返事はなく、質問を変える。
「なぜ、ひとりで、ここにいるの?」
 質問が届いたのだと判ったのは、彼の体が僅かに震えたからだ。耳は聞こえているようだ。それに言葉も理解している。
 今、瞳が揺れ、唇が薄く開いた。
 声の発し方を忘れてしまったのか、それとも言葉を探しているのか、唇が開いては、閉じる。
「――……ぼくは」
 答えがあった。最初は吐息だけ。次第に言葉が音を持ち、最後にはまともな声を取り戻す。
「ぼくは、自動人形だ」
 メイベルは惑わされなかった。それどころか、自動人形なものかと反発心を抱いた。
「あたしには人間に見える。あなたは自動人形じゃない」
「それでも。ぼくは自動人形だ。だってこの家には、もう自動人形しかいないんだ」
だから――と、彼は言葉を繰り返した。
「ぼくは自動人形なんだ」
 長いこと水を摂っていない掠れた声が不安定に響く。
 自動人形なものか。
 自動人形のふりをして、彼はここでじっとしている。
 一体いつから、どれほどの間、そうしていたのか。最後に食事をしたのはいつだろう。このままこうして、誰にも知られず死んでいくつもりだったのか。ぞっと胸が冷えた。一人ぼっちでこの部屋で過ごす恐怖を想像した。可哀想に――と、同情する気持ちが首をもたげて、しかし、妙な抵抗感を抱く。『可哀想』と言い切れないのは何故だろう。
「アレックス。あたしの家においで。この家にいちゃ、体を壊すよ。なにか食べて、顔を洗って、服を着替えて、出かけよう。場所はちょっと遠いけど――ひとりで居るより、いいでしょ」
 当然頷くものと思って、彼の反応を待つ。
 ところが、急に耳が詰まったみたいに何の答えもない。いじけたように黙っている。
「ずっとここに居るつもり?」
「……」
「このまま死にたいの?」
 床にしゃがみこんで、顔を覗き込みながら問いかける。
 黙り込むこどもの顔を見つめる。目元になにか老廃物が残っている。涙の跡だろうか。ぎゅっと結んだ唇が少しだけほどけて、短く答えた。
「自動人形は死なない」
 ――以前、フランチェスカが言っていた。
『甘えん坊なの。自分じゃ言い出せなくて、わたしが気付くのを待っているような子』
 この子はきっと、出来たはずなのに、声を出さなかった。ここにいる、と叫ばなかった。メイベルが部屋に入っても、気配を消して身動きせず、見つけてもらうのを待っていた。
 それが、妙に、腹立たしいような――こんな状況下で、置き去りにされて傷ついた子供が塞ぎ込むのも仕方がない、と思う反面、あまりに消極的な態度に怒りを覚えた。
「そう。そうだね」
 ごっこ遊びだ、とメイベルは思う。
「アレク。あんたは自動人形だ」
 この子は今、自動人形ごっこをしている。意地を張って、頑なに、人間ではないと主張する。そのくせ、自動人形らしさなんて微塵も取り繕わない。
「命令だ、アレックス。あたしの家に来なさい。なにか食べて、顔を洗って、服を着替えて、あたしと一緒にこの家を出なさい。ここに、ひとりで居てはダメ。いいね」
 滲み出る苛立ちを隠せずに強い語調で言うと、はじめてアレックスはメイベルの顔を見上げて、驚いたように瞬きをした。瞳が涙の膜で潤うのは、単純に乾燥を防ぐための生理現象だったのだろう。
 ようやく目があった。
「……あたしは、メイベル・リンドグレン。今からしばらくのあいだ、きみの主人になる。あたしの命令は絶対だよ、もしもきみが自動人形ならね。アレックス」
「……」
 答えない。でも、抗うような気配はなかった。
「わかったら、まず、何か食べて、水を飲むこと。そのあと顔を洗って着替える。一時間だけ待つから、それまでに準備をしなさい。あたしは……もうちょっと家の中を見る。だから、準備が済んだらあたしを呼びなさい。いい? ちゃんと……メイベル、って呼ぶの。わかった?」
 命令口調で指示をするのは気分の良いものではない。
 相手の意図を探るような眼差しを、メイベルはまっすぐ受け止める。
 感じた苛立ちはアレックスの無事を祈るためだ。
 フランチェスカを悲しませたくない。
 ここで置き去りにしたら、この子は死んでしまうかもしれない。それは見過ごせなかった。怖かった。
 だから語調も強くなる。
「呼んでみて。練習だ」
「……メイベル」
「そう。できたじゃん、えらいよ。さ、立って。準備を始めて」
 アレックスは椅子を降りてよろけて、メイベルは彼を支えて立たせる。一歩二歩、危うい足取りで歩み出し、次第に確かに絨毯を踏んで、アレックスは自動人形たちの部屋を出ていく。メイベルはそのちいさな背中を見送った。

   ***

 屋敷に小さな物音が響いて、人の動く気配を感じると、それまでの不気味さは消失して、今はただ空っぽの寂しいだけの建物に立ち戻る。
 アレックスは出かける準備をしている。体は思っていたより大丈夫そうだ。
 屋敷を一巡りして、ほかに人間は見つけられなかった。
 スノウリング夫妻とフランチェスカがどこへ行ったのかも分からなかった。
 一度報道されたのだから、誰かが彼らの不在を訝ったのは確かだろう。研究所や企業は彼らとの連絡不通に慌てただろう。それでも、あれ以来大きく取り上げることは二度となかったから、彼ら自身は近しい者には居所を知らせているのかもしれない。実の子供は、置き去りにしていても――。
 意図的な隠遁ならば、ほとんど無関係なメイベルが彼らにたどり着くのは難しいだろう。
「メイベル」
 再び自動人形の保管室に戻ったメイベルを、呼ぶ声はすぐ傍らで聞こえた。
「……準備、できた? なにか持っていくものはある?」
 手ぶらのアレックスに問いかけるが、動き出す気配はない。身一つで構わないのか。この年頃で執着する物を何も持っていないのは少し寂しい気がした。
 ふと、視線が動く。
 アレックスの頭が僅かだけ部屋の中を覗く。
 メイベルも、丁度同じものを見ていたところだ。
「……あの、自動人形。フランチェスカにそっくり。いつも一緒に暮らしていた?」
 アレックスは俯く。その挙動から否定を読み取って、改めて自動人形を見やる。
「連れて行く?」
 問うたのはアレックスだ。決定権を委ねながら、メイベルに肯定を期待している。どこまでも消極的な態度に半ば呆れ、しかしはじめて示した意思に免じて、メイベルはこたえた。
「連れて行こう。アレクがそうしたいなら」
 また、口を閉ざして俯く。
 今度のそれは肯定の意だ、とメイベルは勝手に決め込んで、自動人形の休眠状態を解除する。
「あなたの名前は? 識別番号を名乗って。今、誰に従っているの?」
 あなたは誰の自動人形ですか、と尋ねた。
「わたしは。……わたしは」
 フランチェスカ似の自動人形は、答えに戸惑い、口ごもる。その仕草にメイベルは驚いて、改めて自動人形を見つめた。口ごもった――そんな無駄な仕草を用いる自動人形が居るなんて。メイベルはその瞬間、好奇心だけになって自動人形を眺めた。長い髪、少し冷たい容貌、ほっそりした輪郭。
 全て、フランチェスカの見事な模倣だ。
「個体情報を照会して」
「当自動人形、登録名《未設定》はエメス社の骨格機構を持ち、同社の人工知能で思考しています。外装は個人製作、登録モデル《フランチェスカ・スノウリング》に基づいて作られています。声帯は前述のモデルから採取しています」
 新しい情報はほとんど手に入らなかった。
 スノウリング夫妻は自動人形の研究開発者だ、世の中に出回らない自動人形を所持していても不自然ではない――。が、娘にそっくりな自動人形を、何のために作ったのだろう。
「あなたがわたしのご主人様ですか?」
 迷子の幼い女の子を連想する頼りない響きだ。メイベルが知っているフランチェスカはそんな喋り方はしなかった。今まで自動人形を不気味だとは思わなかったが、知己を模したそれと相対することが、こんなにも居心地の悪いものだと初めて知った。――気持ち悪い。
「所有者登録コードは、あたしは知らないから。ご主人様にはなれないよ。アレックスは何か知らない?」
 傍らの男の子は、自動人形を視界に入れまいとして不自然な方を向いていた。あの様子では知らないのだろう。
「所有者登録コードの設定はありません」
「ないの? そんな……」
 むき出しの、誰でも主人になることが可能な、無防備極まりない状態だ。『ご自由にお持ち下さい』と気楽に言えるほど自動人形は安価ではない。
「じゃあ、あたしがひとまずの主人になる」
「畏まりました。仮登録を行います。登録完了から七十二時間、あなたがわたしのご主人様です」
「オーケイ。あたしはメイベル・リンドグレン。あなたの名前は――」
 どうしよう。
 何と呼べばいいのか。
 困ったな。この顔をしている女の子を、この声で喋る女の子を、《フラン》以外のどんな名前で呼べばいいんだろう。
「アレックス。この子の名前を知らないの?」
 恐々と顔を上げてアレックスは自動人形を一瞥する。すぐに視線をそらして、表情のない横顔が答えた。
「フラン」
 素っ気無い響きに、それでいいの? と、問いたい気持ちもあった。フランチェスカの似姿を彼女の愛称と同じ名で呼ぶことが、不義理に思えて居心地が悪い。
「フラン――」
 同じ名で呼んだからといって、同一視するわけじゃない。そう確かに心で唱えて、もう一度呼んだ。
「フラン、ね。今だけかもしれないけど、あなたをそう呼ぶね。動ける? 外へは出られる? これから家を出て、ネオンビスコっていう町へ向かう。あなたも着いて来て」
「はい。畏まりました。わたしはフラン。メイベル・リンドグレンの移動に同行します
 これで出かける準備は整った。
 誰もいない屋敷をあとにする。
「行くよ、アレックス」。
 熱い、子供の体温を手のひらに握り締める。微かに握り返す圧力を感じて、メイベルは少しだけ安堵した。

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