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 大学に着いても足のことを考えていた。少女の足。電車に轢かれた少女の霊。足だけの幽霊。誰かに話してみようか。でも、気味悪がられてお終いだろう。
 それに第一、僕には友達が居ない。顔見知りなら居る。友達の定義を拡大すれば、友達は居る。けれど、顔を合わせて嬉しいような、心弾んで楽しい気分になるような知人は、一人としていない。努力を怠った結果で、大学三年にもなった今、この状況は卒業まで確定している。情けない気持ちも、後悔も未練もある。でも今更どうしようもないのだ。
 関心が持てないとでも言うのか。授業は集中して受けられるし、誰も頼れないから真面目にならざるを得ないか、あるいはとことんまで手を抜くか。適当にやっている。独りでいることは恥ずかしくないから、気楽なものだ。
 講義の間もずっと、足のことを考えた。死んでしまった少女のことを。もう何もできない、何も得られず何も残さない、存在しないも同然の、真実存在していないはずの少女のことを。
 家に帰ると、少女の足がお帰りなさいと言わんばかりに歩み寄ってきた。
 その懐きぶりに、僕は拍子抜けした。霊ならもっとそっけなく、あるいはおどろおどろしく、人に害こそあれ、親しみなど示さないものかと思っていた。
 昨日と同じく僕は食事をして、その間、足は行儀よく座っていた。
 僕が話しかけると僅かに嬉しそうに指が動いた。
 もしかすると、やっぱり彼女は早すぎた死を後悔しているのかもしれない。だから人と接することが嬉しいのかもしれない。
「僕は小さい頃、たくさんのものが怖かった。だけど今はもう怖くない。君が幽霊だとは分かるけど、だから何? って感じ。怖いものは、そうだなぁ。集団になった途端自分が強くなったと勘違いするような奴。怖いっていうか、嫌いだ。声を上げて存在をアピールする奴。笑いながらテーブルを叩いたり手を打ち鳴らしたり床を蹴って騒ぐやつ。バラエティ番組の出演者じゃないんだから、って思うよ。きみはまさか、そんなふうに笑ったりしなかったろうね?」
 足がもじもじと揺れる。心当たりがあるのだろうか。
「カメラクルーもADも居ないんだからさ。ましてそれを期待のまなざしで見つめる観客だって居ない。きみはきみの周りの人が分かる範囲で、感情を表現したらいいんだよ。それが人間のはずだ。エンターテイナーじゃなくて、一般人ならね、そうするべきだ。静かに、身の丈で暮らすべきだよ」
 足がやや、姿勢を崩す。リラックスしているらしい。
「いいね。慎ましやかだよ」
 なんとなく理由もなく褒めると、足は途端に膝をあわせ、姿勢を正した。かわいい奴だ。
  
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 足との生活が三日も続くと、そういう形の愛玩動物にも思えてきた。
 思ったより慣れるのが早くて、自分でも驚いている。
 足は従順で、時折僕の言葉にじっと耳を傾けるようにも感じられ、今じゃ学校でうわべだけの友達と会話をするよりも余程充実した関係に思える。
 靴下を履いた少女の足はやや内股気味で、ローファーで矯正された歪な形をしていた。この足が、かつて少女の全てを支えて、彼女を望む場所へ運んだのだ。おそらく、線路へ飛び込んだその瞬間を決定付けたのも、足のはずだ。十六年そこらの人生の間に彼女だけのかたちに歪められた足。偏平足になりかけの、平べったい足。
 風呂から上がって、僕は彼女の靴下を脱がせる。指は綺麗に親指から背の順に並んでいて、小指の爪がやや潰れてしまっている。
 手のひらで踵を支え、暖かく湿ったタオルで指の股を丁寧に拭う。足首がくすぐったそうに揺れるけれど、構わない。土踏まずをなぞって、最後に支える手を足首へずらして、かかとをくるくると拭いて、おしまい。幽霊の足が老廃物で汚れるとは思えないけれど、気持ちの問題で、一日の終わりにはそうしてあげる。共に一日を終えるのだ。
 寝る時は靴下は履かせない。朝起きて、僕が着替え終わってから、彼女に靴下を履かせてあげる。
 いつの間にかそこが定位置になった座布団が、彼女のベッドでもあった。横たわった素足を見るとまるで僕が猟奇的な偏愛者で、殺した少女の足を並べて飾っているような倒錯的な気分を楽しめる。そんな視線を注がれているとも知らず、彼女は安らかに眠る。(いいや、安らかに眠れないからこそ、彼女はそこに居るのだけれど。)
「なんで君は、自殺なんて、したのかな」
 問いかける、声に答えはなくて、僕は好き勝手に言葉を投げかける。
 受け身も取れない彼女が傷つくのを楽しむように。
「いじめられちゃったのかな。君は、周囲から浮いていたのかな。もしかして少し気取り屋さんだったのかな? 周りとは違う自分に酔って、迎合しないことで優越感に浸って、誰も自分を理解できないだろうと見下して、はっと我に返ってみたら、すべては手遅れで。周りとは違うから仲間に溶け込めない、一人ぼっちのまま誰にも理解されない、ああ、理解されたとしても君は、それを否定して壁を築く。どんどん、どんどん、分厚い壁を築く。誰の声も聞こえなくなるまで、完膚なきまでに一人ぼっちになるまで――そして」
 あの日の列車の衝撃を思い出す。
 車輪が何かに乗り上げたような感触、車体が前後に揺れて、がくんっ。列車が停まる。車内のスピーカーから聞き慣れない電子音が漏れて、車掌の鼻づまりめいた声が告げる。人身事故が起きた、と。救助を行うから停車する、と。
「それとも君は――何かに失敗したのかな? 大きな夢や、希望を抱いて。期待していた。とても快いことが起きると、信じて疑わずに、歩いていた。だけど、どこかでつまずいた。あっという間に、世界が反転する。君は、打ちのめされる。すべては理不尽で、冷たく、凶暴で、君を襲う。襲う。君は翻弄される。何も得られない。何も示せない。存在の無力と無価値を知る。どうして、こんなことに。嘆いて、嘆いて、嘆くことしかできない」
「それとも君は、もっとも近い人に助けを求められなかったんだ。父親に乱暴されたとか、母親に売春を強要されたとか、そういう――発覚したら、ニュースが賑わっただろうね。でも君はきっと、ささやかな理由で死んだんだろうな。そういう足をしているから。いじめっ子の名前を遺書に残したり、恨みがましく道連れを求めたり、しなかったんだろうな。何か主張のために、身を投げたんじゃないんだろうな。きっと優しくて常識的な両親に、育てられたんだろうな……」
 足は、聞いているのか、聞いていないのか、身動きひとつしない。
 僕はさらにいたずら心が沸いてきて、眠れずに居た。
 なぜか彼女を痛めつけたくなって、そわそわしていた。
 相手は幽霊だ。僕は、祟られるだろうか。恨まれて、呪われるだろうか。今後の人生に災厄がつきまとうだろうか――。
 今後の人生、なんて。
 期待するようなことは何もない。
 あるはずもない幸運が失われたって惜しくない。
「自殺をするような人が、僕は、平凡な感覚を持っていたとは思えないんだ。思慮が足りないか、思慮が足りすぎたのか。どうして、実行する直前に、深呼吸できなかったのか。積み重ねたすべてを投げ出して、無責任だ。自分の人生に自分で幕を引くなんて、とても責任感がある――一体どっちだろう。でも僕は、嫌いだ。自殺する人は、嫌いだよ」
 彼女を傷つけたい、という凶暴な欲求は、言葉にして吐き出してしまうとそれで気が済んだ。ぴくりともしない彼女の足は、窓の下で青白く染まって、なるほどこの世のものではないのだなと感じさせる。
「ごめん」
 ひどく身勝手に振る舞っているのは、彼女に顔がないからだと思う。表情がないし、何も喋らない。だから僕自身が傷つくことはなく、彼女に自分勝手にぶつかることができるのだ。彼女と会話ができたら遠慮があっただろう。彼女の人格がわかれば、尊重しただろう。そうしてきっと、遠ざかっただろう。身近に置きたいなどとは思わなかっただろう。僕は傷つきたくない。誰かに否定されるか、それを防ぐために振る舞うのは、とても消耗するのだ。

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 今まで積み上げた何かを捨てる、あるいはそれから逃げ出すことで、事態が好転すると思うのは甘えだと思う。それに、大抵捨てたつもりで、そいつらはしつこく後を着いて来る。気づいたって手遅れだから、気がつかないほうが気は楽だろう。
「……いってきます」
 少女の足は部屋の隅で「気をつけ」をしていた。靴下を履いて、きれいにそろった足。とても微妙な曲線で描かれたかたち。カーテンの前で落ちつかないふうに立っている。
「出て行きたかったら、好きにするといいよ。……幽霊だろ、勝手に壁でもドアでも抜けて行けばいいさ。昨日は、ごめん」
 それだけ残してドアを開ける。昨日までとは明らかに違う、冬の空気を含んだ風が吹いている。コートを下ろさなくてはと思いながら、それきり振り返りもせずドアを閉める。鍵をかけて駅へ向かう。少女を轢き殺した列車は今も線路を走っているのだろうか。彼女をすり潰した運転手は、今日も鼻声で駅名を唱え続けるのだろう。それだって彼らの日常だ。朝早く起きて、制服に着替え、列車に乗り。株が落ちて人が飛び。線路が汚れてダイヤが乱れ。苛立ち、焦り、憤る客に遅延証明を配って。それでも、その日は食事をするだろう。美味いと感じて、満足して、眠るのだろう。自分には無関係なのだと、関係性を遮断しながら、日々を重ねていく。そうでもしなければ。死との距離感に疲れてしまうだろう。彼女の死はどれほどの影響を世界に残したのか。なぜ足だけが消えずに残ったのか。
 大学の講義を、いつも前の席で聞く。最前列ではなくて、三列目や四列目、無難に紛れる席を選ぶ。今日は背後がうるさくて、笑い声に苛々して、注意しようと振り返ると顔見知りだった。「お前、いたのか。最近見ないと思った」僕は黙って姿勢を戻し、黒板を見つめる。いつも僕は、ここにいる。同じ席に座っている。笑い声が耳障りで、何もしていないのに糾弾されている気がした。こうして大学で、一人きりでいると、僕は今存在しないのだと感じる。僕はどこへ行ってしまうんだろう。
 皆が一人きりになればいいのに、と思う。僕だけじゃなくて。全員が全員、孤独だということを自覚して生きていればいいのに。そうすれば惨めな気持ちにならなくて済むから。一人でいるのは構わない。けれど、一人でいることをあざ笑われることが嫌だ。ということは、僕はこの状況を、自分で選んだつもりでいながら、不本意だと思っているのだろう。 全て捨てて、ゼロからやり直したい。だけれど僕は、そうしたところで、何度も同じところでつまづくのだろう。今までだって捨てたつもりで来たのだ。地元を捨てたつもりで。高校生活を捨てたつもりで。今までの交友関係を捨てたつもりで。それでも今も付きまとう。僕が僕である限り、僕を構成する全てが、僕を逃がさないのだ。
 怖い、と、思う。幼い頃怖かったものは、今ではもう怖くないのに、幼い頃なんとも思わなかったものが、今は怖い。
 家に帰り着いたのはすっかり日が沈んだ頃で、途中で買った弁当は少しだけ冷めていた。温めなおすのも面倒だから、そのまま食事にする。
 そのときまで気づかなかった。足だけの幽霊が退屈そうに立ち尽くしている。
 壁によりかかった少女を幻視する。でもそこにあるのは、腿から下だけの、まるでマネキンをぶった切ったような足。そうっと産毛の生えた、若い肌。
「……出て行かなかったんだ」
 足が「気をつけ」をした。その仕草に苦笑する。
「ここが気に入った? 僕を気に入るとは、思えないけどさ」
 自虐的な言葉に足は戸惑ったようだった。構わず白身魚のフライをかじる。ふと、何か違和感を覚えて傍らに目をやった。
 人懐こい猫のように、足が僕の腰辺りにすりよっている。言葉を持たない彼女が何を伝えようとしているのか分からなかった。
「ここに居たいの?」
 足は動かない。
「僕のことが好き?」
 足が正座をするかたちに変わる。
 どうやら彼女は変人だ。僕のことを好きなんて。否、言葉のない彼女の仕草をいいように解釈しているだけかもしれない。僕の都合のいいように。僕を慰めるように。
 幽霊なんているわけないだろう。この足は僕の幻覚なのだろうか。だとしたらどうしてもっと気の利いた幻を見られないのだろう。中途半端だ。
 僕は、落ちこぼれることも中途半端で。投げやりになることも中途半端で。今まで何一つ、頑張ったと思えることがなくて。どうせなら、どこまでも破綻してしまいたいのに。平凡にしか生きられなくて怖くなる。ここにいるのに、僕は、どこにもいない。誰からも見つからない。隠れているつもりはないのに。誰かに見つけて欲しいのだろうか。わからない。
 食事を終えて、風呂に入って、しばらく無為に読書をした。体が冷え切った頃、眠たくなって布団にもぐりこんだ。
 少女の足は座布団に横たわる。それを見ていた。
 不思議だな、こんな幻覚。
 僕は足に対して妙な執着を抱いたことはないはずだ。思い返しても、とくに思い出はない。昔……幼い頃、隣の一家と一緒に、家の前で花火をした。そのとき、隣人の奥さんがしゃがんでいた。かたちの歪んだスカートから覗く白い足に、黒く長いすね毛が生えていて、嫌悪した。女の人の足は毛が生えないものだと思い込んでいたからとても気味が悪くて、途端に彼女を理解できない存在だと感じてしまった。その程度だ。関連性はないと思う。
 近所にある女子高のことも特別意識したことはない。
 やっぱり、気にかかるのは自殺した女子高生の存在なのかもしれない。
 自殺。線路に飛び込んで。多くの人を巻き込み、迷惑をかけて……。なんて、想像力の欠如した行為。彼女はどうして死のうと思ったのか。
 自ら死ななくても、人はそのうち死ななきゃいけないのに。
 なぜ。