森の夢

私は、森の中を行く。
湿った土を、落ち葉や枯れ枝を踏みながら、歩いていく。

噂に聞いたから。
この森で――
人はひとつ記憶を失う。

忘れたい。
だから私はここへ来た。

――忘れたいのだ。
今日までの疲れを。
終わらない反省と、それでも繰り返される失敗の日々。
反省が活かされないなら、失敗した経験など、記憶に残る意味がない。
だからもう、忘れたかった。
失敗してしまったこと、そのせいで誰かに嫌われたんじゃないかと怯えることも――
もう、気にしたくない。

忘れてしまおう。
そのために歩き出して、どれだけ経ったのだったか……

ふいに、木々が開けた。

沈んだ緑色ばかりの森から見ると、明るい日の差す庭が、別世界のように感じられる。
気取らずに咲く花々の向こうに、古びた屋敷が建っていた。
窓が開いている。
はためくカーテンの向こうから、女の子が身を乗り出して、私へ笑いかけてくれた。
その姿はすぐに窓の奥へ消えて、『もしかして、見間違えだったのかしら』と不安になる頃――
玄関の扉が開いた。
弾む足取りで、庭を駆けてくる。
そうして、庭先で立ち尽くす私のもとへやってきて、躊躇することなく手を取った。
積極的な握手だった。

「はじめまして。ぼくはルクレイ。あなたは?」
「私は、えっと、
、だね! よく来たね。もうすぐお茶の時間なんだ。一緒にどう?」
「ええっと……いいの? 私、ここへ来るのははじめてで……」

お話しするのもはじめてなのに。
彼女は、そうとは感じさせない気安さで私を受け入れる。

「遠慮しないでいいよ。どうせ、彼女、たくさん作りすぎてるから」
「……何を?」
「タルトだよ。いちじくと、マスカットの」
「わああ……」
「いちじくは庭で採れたの。マスカットは、お客さんがこのあいだ持ってきてくれて、もう傷んじゃいそうだったから、焼き菓子に」
「うん、うん……!」

食べたい。
そう思うと、遠慮が消えた。

「せっかく、ここまで来たのだから。少し休憩していって。どう?」
「お言葉に、甘えます……!」

頷くと、ルクレイは「うんっ」と笑って私の手を引いた。

部屋の中に満ちる温かな甘い匂いに、歩き疲れた身体はすぐ素直になってしまった。
椅子に座ったきり、もう立ち上がりたくない気持ちになる。
お澄まし顔のメイドさんが運んできてくれたタルトは香ばしく、いつのまにか空っぽになっていた胃袋がたちまち主張してきた。

「いただきます」

ここへ来た経緯も、自己紹介もそっちのけで、私はタルトにフォークを入れる。
傍らで、メイドさんが落ち着いた所作でお茶を淹れてくれる。
湯気の上るティーカップを見て、どんな味なのかしらとわくわくする。

「おいしい?」
「うん! とっても」

ルクレイの質問に、頭で考えるよりも先に答えていた。



なぜこの森へ来たのか。
そういう質問を、彼女はしなかった。
私はというと、他人には打ち明け難い話なのに、彼女から質問される瞬間を待っていた。
聞いてほしかったのだと思う。誰かに。
自分の中だけで煮詰めて抱え込んだ、他人からすれば些細で取るに足らないかもしれない、悩みの種を。

、来て」

私を呼んで、ルクレイは裏庭へ案内してくれた。
裏庭は菜園になっていて、表の庭よりも整理整頓された植物たちが、きっちりと育っていた。
瑞々しく青いトマトが、ついさっき水を与えられたのか、しずくを浮かべている。
菜園の範囲を示すように並べられた鉢の中には、かわいらしい緑の葉っぱが茂っていた。
「これ、ミントかな」

見慣れた形の葉っぱだったけれど、慣れ親しんだものより大きくたくましい印象だった。
だから、そう尋ねると、ルクレイは首を傾げて「さあ?」と答える。
あまり、そこにあるのが何かと頓着しない子らしい。
彼女は通りがかったメイドさんを捕まえて、鉢に植わっているものが何かと尋ねる。

「メルグス。これ、何ていう葉っぱ?」
「ミントです」

メイドさんは一瞥もくれずにたった一言答えると、そのまま自分の用事を済ませに庭へ消えていった。
彼女の歩みに従って、納屋の奥の井戸からどんどんホースが伸びていく。
これから洗濯の時間なのだろう。
なにか手伝わなくていいのだろうか。
そんな落ち着かない気持ちになった頃、メイドさんがふいに戻って来て、私を見た。

「お好きなら、のちほどハーブティを淹れますが」
「えっ」

好きかな。
飲んだことないかも。
でも、飲めるらしい。
どんな味かしら。
飲んでみたい。たちまち欲求が膨らむ。

「お願いします、ぜひ」
「承りました」

表情は変わらないけれど、踵を返して庭へ戻る後姿が、なんとなく満足そうだ。
自分が育てたものを振る舞う機会が、もしかしたら嬉しいのかもしれない。

「私、お手伝いしようかな。洗濯物……」
、それなら干すときがいいよ。洗うのは、任せたほうがいい。
びしょ濡れになっちゃって、洗濯物を増やすことになるからね」

ルクレイがいかにも先人の知恵というふうに教えてくれた。
けどそれって多分、彼女が不器用だっただけなんじゃないかしら、と思い当たっておかしくなってしまう。
メイドさんの困った顔も目に浮かぶ。

「そうだね。じゃあ、もう少ししたら。お手伝いしに行こう」
「うん!」



真っ白いシーツが日差しを反射して、眩しかった。

、そっち持って」
「うんっ」
シーツの端と端を、ルクレイと協力して支え、ぴんと広げる。
庭の柵や樹の間に張った物干し紐にかけて、シーツを干した。
まるでテントみたいになったシーツをくぐって、玄関へ戻る。
洗濯物を干す仕事を私たちに任せ、一足先に屋敷へ入ったメルグスが、二階のテラスに姿を現した。

「お茶を淹れました。ハーブティを」

声を張ったわけでもないのに彼女の声はよく通る。
ちょうど喉が渇いたところだった。
私たちはテラスへ急いだ。

テラスから見下ろす庭で、へんてこな形に広がったシーツが花たちを隠しているのが見えた。
風が吹くと、シーツに反射した光がきらきらと散らばる。
それを眺めながら、ルクレイと一緒にお茶を飲んだ。
ミントティの涼しさが、働いた身体にさわやかに染みる。

「アップルミントだ…」

一口飲むと、すぅっと通るミントの香りの中から、強く感じた。
りんごみたいに甘い匂い。
ふいに顔を上げると、屋根の端に真っ青な空が見える。
今日は昼が長いな、と思う。
まるで夢の中にいるみたいだ。
夜が来なければ明日が来ないのに。
明日が来なければ、私はずっとこうして森にいる。
そうだといいのに。

は、どうして森に来たの?」

油断をしていたから、その質問にぎくりとした。
尋ねられる瞬間まで、私はすっかり忘れていた。
どうして森へ来たのだったか…。

「私は……」

私は。

――たった一言、『疲れちゃったの』と言葉にすることに、どうしてこんなに抵抗があるのだろう。

ほかにも頑張っている人がいるから。
私より苦労している人がいるから。
その人たちに比べたら、私なんか。
私なんか、本当はなにも頑張っていないんだ。
私は手を抜いて、ずるをしているんだ。
そんな気持ちが拭えない。
そんな気持ちを忘れるために、ここへ来たのかもしれない。

「ゆっくりでいいよ」

ルクレイが囁いた。
ゆっくり答えればいいよ。
そういう意図だったのだろう。
でも私はその瞬間、自分の中の焦りに気付いた。
ゆっくりじゃ、だめなんだ。
そんなふうに焦っている。
でも――
どうして、焦っているのだろう。
ほかにも頑張っている人がいるから、私より苦労している人がいるから、その人よりも楽な私は手を抜いてずるをしているのだから、もっと頑張らなきゃいけないんだと思っていた。もっと、もっともっと、頑張らなくちゃ――
その焦りこそが、私を疲れさせていた。

誰にもそんなこと言われていないのに。
勝手に思い込んで不安になっていただけなのに……。
ゆっくりでも、いいはずなのに。

「忘れたいな、この不安を」

やっと吐き出した言葉と引き換えに飲み込んだミントティが、胸の中にすっきりと染みて広がる。
ルクレイは、聞き出したくせに、答えになんか興味ないような顔でカップをあおっていた。

「忘れられるよ、きっと」

無責任な言葉だ。
でも、彼女にそう請けあってもらうと妙に嬉しかった。

「もう日が暮れるよ。今夜は泊まっていくでしょ?」
「え?」

日が暮れる。
空を見上げると、いつまでも続くかと思われた昼の青空の色が、西日に染まりはじめていた。
風が冷たくなる前にと急いでいるのか、メルグスが小走りで庭に出てシーツを取り込む。

「洗いたてのシーツ、客室のベッドにかけるよ」
「わあ…!」

あの干したてのシーツで、今夜眠れるのか。
そう思うと、迷いはなかった。

「泊まってもいい? 今夜」
「もちろん」

ルクレイは笑う。
最初から、私の答えを知っていた顔だ。



長い間干したようには思わなかったのに、昼の強い日差しと風にシーツはきっちり乾いて、森の香りが染み込んでいた。
私は毛布の中に広がる森の匂いにつつまれて眠る。
昨日や一昨日の夜とはまるで違う夢を見た。
鳥になって空を飛ぶ夢を見た。
風になって小枝を揺らす夢を見た。
土になって種を育てる夢を見た。
種になって土をかきわけ、小さな芽を出す夢を見た。
空になって、開いた花を見下ろす夢を見た。
つまりは、たくさんの森の夢を見た。
でも、目覚めたとき、なにひとつ鮮明には覚えていなかった。

目蓋をやさしく照らす朝の日差しに、夢の余韻がそっと取り去られていく。

「……アップルミント」

どこからともなく香っている。
キッチンのほうだ。
森の匂いが染み込んだシーツに頬を押し付け、まどろみの中を泳ぐ。
ああ、このままずっと眠っていたい。
でも今すぐキッチンへ行けば、またあのミントティが飲める。
それはとても、今日のはじまりに欠かせないことだという気がして、私は名残惜しい毛布の中から抜け出した。



、もう行くの?」

おいしいアップルミントティを楽しみ、ルクレイとの静かで賑やかな朝食を終え、私は玄関の前にいた。

「うん。ほんとは、やらなきゃいけないことがあるの。それは、私のやりたいことでもあるから。私、帰らなきゃ」
「うん。わかった。気をつけてね」
「ありがとう、ルクレイ」
「これ、持っていって。今朝摘んだの、メルグスが。淹れ方のメモも書いてくれたよ。好きなんでしょ?」
「あ……! いいの?」

好きだったわけじゃない。
でも、ここで飲んで、好きになった。
だから私は受け取った紙袋を抱きしめて、彼女の姿を探す。

「メルグス、どこ行っちゃったんだろう。菜園かな。呼んでくる?」
「ううん……お礼を、伝えてくれる?」
「いいよ。伝えるね。がとても喜んでいたって」
「うん! きっとだよ」

ルクレイが頷いて、それで安心して心残りはなくなった。
私は玄関を一歩踏み出して、森へ向かう。あの森を抜けて、町へ帰ろう。

また、何かを忘れたくなったとき、ミントティを淹れよう。
温かなお茶と緑色の香りが、森の景色を見せてくれる。
その夜に、私はまた森の夢を見るだろう。