7. ほぼ轢死体になるか、諦めて引き返すか。 それとも防護服の連中に連れ戻されるか。 がんがんと頭が痛む。学生のときみんなで一升瓶を三本空けたとき、同じような状態になった。 そんなこと、今までずっと忘れていた。あのとき一緒に飲んだのは誰だっただろう。 どうしてそんな状況になったのか、一体誰が酒を持ってきたのか。まるで覚えていない。 自宅の、六畳一間のワンルーム。自分の部屋の匂いが少し懐かしく感じられるのは何故だろう。 寝間着に着替えてベッドに入って眠っていた。 着ていたスーツはハンガーにかけてある。 脱ぎ捨てたシャツが洗濯機から左袖だけ垂れ下がっている。 換気扇が回る音だけが聞こえる。 ゴミの日を待つふくらんだゴミ袋が玄関に二つ並んでいる。 窓の外が暗い。時計を確認する。午前六時三十七分。まだあと一時間は眠れる。 寝坊したって構うものか、どうせ教師なんて職業に情熱も矜持も、意地だって持っていない。 今眠ったらすごく気持ち良いだろうな、と体の欲するままに、千葉は二度寝を貪った。 次に目覚めたとき、時計は七時四十分を指していた。余裕を持って出勤できる時間帯だ。 不思議と、寝不足が解消されたように頭が軽かった。 気分も悪くない、むしろいつもより良いくらいだ。 たったの一時間ほどの間に、昔のことをたくさん夢に見た気がした。 文脈も時間軸もばらばらの、取り留めのない、昔の思い出とも言えない些細な記憶が蘇った。 子供の頃、悔しかったことや、学生の頃、恥をかいたこと。 今ではもう、取るに足らない、過ぎ去った時間のことを。 清潔なシャツを着て、スーツを着込み、書類を揃えて学校へ向う。町は今日も曖昧な天気。 内側をめぐる列車に乗って学校へ向う。 列車。 あれは夢だったのだろうか。 軽やかに走る、天根の背中。朝日を受けて輝く髪。何もかもから解放された歓喜の笑顔――。 現実のはずがない。 千葉はそう結論付ける。 駅を越えて、線路の先を目指すことなど、許されるはずがない。 そんなことが出来たら、もう誰かがやっている。 それなのに、この町は未だ線路に囚われている。何故か。成功しないから。当たり前だ。 実行したところで、ほぼ轢死体になるか、諦めて引き返すか。 それとも防護服の連中に連れ戻されるか。 急に頭に刺さるように痛みが走り、それ以上考え事ができなくなる。足は自動的に千葉を学校へ運んでいた。 教室の黒板が、十一月十九日になっている。おかしい。今日は十一月十八日のはずだ。日直にそう伝える。 「先生、昨日休んだじゃないですか。それで、感覚ずれちゃったんじゃない? 今日は十九日であってますよ」 千葉は固まった。一時間寝たはずが、二十五時間寝ていたわけだ。そんなに疲れることがあっただろうか。 欠落した一日のことが、妙に気持ち悪かった。 「そうだ、昨日、天根は欠席したか?」 「どの天根ですか? 天根なら昨日二人休んでます」 「天根みらいだ」 「天根みらい? ああ、欠席してました」 「今日は?」 「来てますよ」 生徒が指差した席に、女子生徒が座っていた。前の席の生徒と談笑している。 元気そうな姿にほっとした。今までずっと、元気がなかったから。そう、姉の娘が亡くなったせいで。 千葉は天根に声をかけず、HRを、昨日の日直の手助けを得ながら続けた。 中間試験が始まること、それが終われば体育祭が来ること、気を引き締めて臨むように。 だらけているわけでも、怠けているわけでもなく、決定的に生気の薄い生徒達が散漫に返事をする。 お決まりの授業をこなし、放課後を迎えて生徒達を送り出す。 「天根」 「はい?」 去り際の天根を呼び止める。少女は不思議そうに千葉を振り返った。 「あ、いや。何もないなら、いいんだ。昨日は、どうしてたんだ?」 「昨日は、ちょっと頭が痛くて、おうちで寝てました」 「もういいのか?」 「たいしたことないですよ。もう元気です」 「そうか。なら、良いんだ」 「心配、ありがとうございます。先生も体調に気をつけて。それじゃ、さようなら」 スカートを翻して天根が教室を出て行く。 西日の差し込む、かび臭い教室に一人残されて、千葉はしばらく呆然としていた。 何かが引っかかっている。違和感が拭えない。 けれどそれは捕らえどころがなく、暁の夢のように、やがて忘れてしまうのだろう。気持ちが悪かった。 一週間、過ぎた。 違和感の余韻を抱きながら、千葉はルーティン・ワークをこなす。 天根は、憑き物が落ちたように、元気に学校生活を送っていた。 もう、放課後に、千葉に絡むようなことはない。駅前で立ち尽くす姿も見かけなくなった。 納得がいったのだ。それとも、何か他に夢中になれるものを見つけたのか。 線路症候群は解消されたのだ。 放課後、彼は加糖のコーヒー缶片手に線路を眺めていた。 また、葬送の列車が駅に訪れている。なんとなく、胸がざわついて、駅へ足を向ける。 駅前で、フラッシュバックした光景のように、少女が立っていた。 天根が、途方に暮れた表情で千葉を見つける。 「先生」 「どうした、天根」 「なんだか、落ち着かなくて。あの列車を見たら、そわそわして」 「治ったかと思ったけどな、線路症候群」 「私、この前から変に頭がすっきりして、気分が良かったの。 でも、この列車を見たら、なんだか気持ち悪くなって。 先生、私、変な夢を見たの。私たちが補習する、夢」 「補習?」 「先生が、そう言ったから。私が、先生を呼び出して。補習をしなくちゃって。 ねえ、先生、四時四十五分が何の時間か、わかる? 私、ずっと、頭にひっかかってて。なんだか、嫌な感じがする……」 「――夢?」 同じ夢を、見た。 いや、違う、あれは、現実に起きたことなのか。 分からない。 「頭痛い」 天根がうずくまる。 「ねえ、先生、あれは、夢だよね? この前からずっと、そのことを考えようとすると、気分が悪くなる」 真っ青な顔が問いかけた。 スラックスの裾を掴まれ、千葉は腰を落とす。天根の目線に合わせて、頷きかけた。 「夢だよ。天根、ただの夢だ」 心にもないことだ。千葉だって引っかかっていたのだ。 けれど天根が今にも死にそうな顔色だから、そう言わざるを得なかった。 天根は、地下施設に連れて行かれたのだ、きっと。あれは都市伝説なんかじゃなかったのだ。 少女は好奇心と探究心を、去勢されてしまった。 「送るよ。家に帰ろう」 「大丈夫、先生、ありがとう。一人で歩けるよ」 「じゃあ、途中まで」 「うん」 天根の手を引き、道を行く。この温度を覚えていた。 あのとき手を繋いで、確かに線路の上を走ったのだ。 夢ではない。きっと。現実だ。 断片しか残っていない記憶の中で、千葉は恐怖に震え、しかしどこかで、安堵していたはずだった。 辿り着きはしなかった、けれど。 確かにこの町の外を、二人は走ったのだ。 いずれ忘れてしまうのかもしれない。 しばらくすると、天根はすっかり調子を取り戻した様子で、足取り確かに歩けるようになった。 自然と、繋いだ手を離していた。 |