8.
 今日はもう授業はない。だから千葉は屋上に来ていた。いつもの何気ない習慣だった。
 授業をして、終わったら屋上へ行き、町を眺めて、気が済んだら帰る。
 それが彼の一日で、その繰り返しで一年が出来ていた。
 今日は校内が甘い匂いに包まれている。
 若い男性教師の常として、千葉もいくつかのチョコレートやクッキーをもらった。
 二月十四日だ。
 バレンタイン・デイだった。
 教え子じゃない生徒まで、若い男性だからという理由だけで千葉に菓子を押し付けにくる。
 決して悪い気分ではないが、別段嬉しいわけでもない。
 子供たちが、この時期は活き活きとして楽しそうなことは、なんだかほっとした。
 冬の風が冷たい。千葉は加糖のホットコーヒーをすする。
 風の音に紛れて、背後で鉄のドアの開く音がした。
「先生」
 聞き覚えのある、女子生徒の呼び声。
 予感は確信になって、振り返る。天根がそこに居た。
「天根。まだ残ってたのか」
「先生と二人きりになれるのを、待ってたの」
 天根みらい。
 秋ごろ、姉の娘が亡くなり、精神的に不安定になっていた生徒だ。
 一時、線路症候群に陥りかけていた。
 一ヶ月ほどでその兆候はなくなり、健全な学校生活を送っていたはずだ。
 天根に関する奇妙な夢を見た気がするが、今はもうはっきりと思い出せない。
 ――四時四十五分。
 一体何の時間だっただろう。時折、天根と共に頭に浮ぶ。
「先生、これ。私からの、バレンタインチョコ」
「ああ、ありがとう」
 軽く、受け取る。
 生徒だって義理のつもりで贈ってきているのだ。
 いちいち取り合っていられない。
「ねえ、これ、本命だよ」
 一瞬、ぎくりとする。だけど、千葉だって新任の教師ではない。
 過去何度か、女子生徒から告白を受けたこともある。
 その全てが、振られることを前提にした告白だった。
 想い出になることで完結する少女達の思い込みだ。
「先生のこと、好きなの」
 上目遣いの、唇が、艶めいている。
 少し割れたそこから、湿った舌が覗いていて、千葉は咄嗟に目をそらす。
 天根みらいが押し付けてくる身体の、高い体温に戸惑った。この体温を知っている気がした。
 雰囲気に惑わされてはいけない。
 天根の場合も今までと同じだ。
 千葉は用意した定型句を口にする。
「困るよ。俺は教師で、教え子の君とはそういう関係になれない」
 煙草もやらない。強い酒も飲まない。なんとなく危険そうな道は避けてここまで歩いてきた。
 それがまさか、生徒との恋愛なんて劇薬を飲み込めるはずがない。
「先生。千葉先生」
 不意打ちに、天根が千葉の首を捕まえる。あまりにも無警戒だった千葉の身体を引き寄せて、その唇を奪う。
 押し付けるような感触。湿った息遣い。離れて、もう一度、キス。首筋を掴む、指の一本一本を感覚した。
 猫のような舌なめずり。一体どこで覚えたのだろうと、不埒な考えが頭をかすめた。
 こんな生徒だっただろうか、天根みらいは。
「先生」
 試すような調子で囁く。
「問題行為だ。誰かに見られていたら、」
「でも、きっと、罰せられるのは先生のほうだよ」
「卑怯だな、天根」
「うん」
 スカートを翻して、逃げるようにステップを踏んで、距離をとる。
 ドアへ向う後姿がこちらを振り返る。身体ごと、もう一度千葉に向き直る。
「先生。ねえ、四時四十五分のこと、覚えてる?」
「……」
 心臓が跳ねた。
 夢のはずだ、あれは。
「明日の早朝。四時半に、中央駅前に来て。
 先生。私のことが好きだったら、きっと、来て。
 一緒に外へ行こう? もう一度。線路の上を、走って行こう?」
「何を言ってるんだ、天根」
「夢じゃないって確かめたいの」
「――夢……?」
「先生。私、待ってるね」
 表情は、影になって隠れている。口元だけの微笑みを残して、天根は踵を返す。
 階段を降りる平坦な靴音が遠ざかって、千葉だけが取り残される。
 

 千葉は、眠ることなく、四時を迎えようとしている。
 自宅のベッドに腰掛けて、何をするでもなく、しかし寝る準備もせずに、呆然と時計を見つめている。
 四時半に、中央駅前。
 ここから徒歩で三十分ほど。走ればもっと、早くに着く。
 天根みらいはもう家を出たのだろうか。
 それとも、本当は千葉をからかっていただけか。
 切羽詰った言葉で、千葉を煽って。困っているふうに見せかけて、千葉を躍らせて、嘲笑うのだろうか。
 一体、そんなことをして何の得になる。
 本当に、天根は、救いを求めているんじゃないか。
 千葉が姿を現すことを待っているんじゃないか。
 そして、一緒に――
「……四時四十五分」
 線路を見張る駅員が、交代する時間。
 あと三分。集中して、先生。
 繋いだ手の温度。朝日を受けて輝く天根の横顔、その笑顔。風に遊ぶ長い髪。
 薄青く澄み渡る空に、ひらめく鮮やかな赤。
 軽やかな足取りで、地面を踏む。
 このままどこまでも、走っていけそうな、広い道。
 どうして夢だと思っていたのか。
「天根――」
 急いで家を出た。走って間に合うか、解らなかった。
 静謐な朝の空気を切って、もどかしい気持ちを焦がして走る。
 寒い冬の、叩きつけるように冷たい風を、いつしか救いに感じている。
 汗ばむシャツが体にはりついて、不自由な思いをした。
 息を切らして、呼吸を荒げて、駅を目指す。
 立ち止まったとき、急激な運動の影響で吐きそうになった。
 汗が地面に滴り落ちる。
 時計を見るのが怖かった。
 見上げると、駅舎の時計が、午前四時五十七分を示していた。
 天根の姿はどこにもなかった。
「――天根!」
 改札を飛び越えて、ホームへ出る。線路へ飛び降りて、着地に失敗して、よろけた。
 足を挫きかけながら、それでもなんとか体勢を持ち直して、道を見据える。
 どこまでも直線に伸びる、線路の上に、人の姿は見えない。
「天根! 天根――」
「おい、何やってる!」
 駅員に気づかれた。
 後ろから押さえ込まれて、抵抗する気力もなく、あっけなく枕木に頬を擦り付ける。砂利の感触が痛い。
 天根は、待っていたのだろうか。
 それとも、ただ、からかっただけなのか。
 後者であれば、それでいい。
 駅員に掴み上げられ、ホームに上るようどやされる。のろのろと従って、背後で呟きを聞いた。
「いい年こいて、線路症候群か」