16

「どうか、お聞きください……」
 三本目の蝋燭の炎が言葉を返すように揺らめいた。
 実際は、テュットの吐息に揺れたのだ。
 祈りの途中で火が消えることは不吉とされている。テュットは慌てて呼吸を整えた。
「わたしは、不名誉な理由からあなたの御許へこの命を返します。
命をお返しすると言うのでさえ、恥知らずと思われるかもしれません。
でも、それを慰めに思って旅立つのです。どうかお許しください」
 炎が揺れる。
「ねえ、神さま。
わたしには家族がいます。
五人もの弟妹たちと、優しい父です。母はあなたのお傍におりますね。
わたしは弟妹たちの前で罪人とされました。
まだその意味の分からぬ子もいるでしょう。
彼らの成長を見ていけなくて、とても残念です。
けど、みんなしっかりした良い子たちだから、わたし、心配してないの」
 主を意識した改まった口調が、ふいに砕ける。
 従来の友に呼びかけるような調子になって、少女は獣を見ていた。
 少女の傍で祈りを見守る獣が小さく首を傾げる。
「わたしね、みんなのこと信用しているよ。
だからなんにも心配してない。
でもね、わたし、ただひとつだけ、思うことがあるの。
信用してるし、心配もしてないのに。
少しだけ、ほんの少し、不安になるの。
わたしの願いはたったひとつ。
みんなが幸せになることは、みんなで祈っていれば大丈夫よ。
だから、これは、わたしの自分勝手な願い事」
 獣はぴくりと耳を立てる。
 少女は一呼吸を置いて、落ち着いて話を続けた。
「わたしの弟妹たちは、もう十を過ぎた子も居るけれど、みんな幼いわ。
とくに小さなユニなんてまだ四歳。
わたしが不安に思うのは、神さま。
わたしがユニやみんなに忘れられてしまうのではないか、ということなの」
 少女の祈りに、獣は震えた。
 たったひとつの最後の願いが、なんと些細なことだろう。
 死の旅のはなむけに望むのが、なんと欲無きものだろう。
「だからね、わたしの願いは、みんなに覚えていて欲しいってこと。
一緒に暮らしていたテュットがどんな娘だったのかを、忘れないでほしいの。
わたしなんて、ほんのちっぽけな、取るに足らない娘だとわかっています。でも」
 卑屈な響きはなかった。
 素直な声がそう言った。
 途中で言葉が切れて獣は不思議に思った。
 見上げたそこで、少女は唇を噛んでいた。
 そうして涙をこらえていた。
「でも、忘れられてしまうのは、寂しい」
 声は震えて湿っても、涙はついに流れなかった。
 目を開いてまっすぐ、その瞳に祈りの火を映していた。
 彼女の強さに男は胸打たれて、身体が痺れたように思う。
 少女のことを尚いっそう愛しく思い、今すぐにでも抱きしめたい気持ちだった。
 抱きしめるものを害するこの腕を憎く思った。
 だからそっと身を寄せる。
 少女の身体が僅かに震えていた。
 もしも、この腕を回すことができたら、
その恐怖を、その凍えを、少しでも和らげることができただろうか。
 口惜しさに身が張り裂けそうになる獣の顔を、小さなものが触れた。
 少女の手のひらが獣を撫でる。
 慰めようとしているのに、まるで慰められたみたいだった。
 だって獣の心は、それだけで嘘のように一切のわだかまりが消えるのだ。
 どんな憤怒も、悲嘆も、焦燥も、動揺も、
手のひらの上の雪の一粒だったように解けて消えてしまう。
 少女の手にすべて委ねた。
 獣の心は穏やかで、満ち足りて、
一時でも、迫り来る別離の瞬間を忘れて幸福な気持ちを味わう。