22 少女の眼差しは真っ直ぐに炎を、その中にあるはずの主の姿を見据えていた。 怯えはないように見える。 表面的には恐れも伺えない。 悔いのない顔には喜びの色も微塵もない。 挑むような果敢な表情をしていた。 身体は固くはなく、力を抜いて自然体でいた。 しかし小さく震える体が、きっと少女の正直な心境だった。 祈りの蝋燭が燃え尽きる。 それは最後の一本だった。 炎が消えてもじっとしていた。 消えたはずの炎がまだ見えているように、目を離さなかった。 獣は傍に寄り添って、少女の鼓動に耳を澄ませる。 言葉なく、どうやって想いを伝えられると言うのだろう。 朝には獄吏がやってきて、少女を牢から連れ出してしまう。 彼女の自由のためではなく、それを永遠に奪うために。 獣は少女が身体を預けてくるのを感じた。 ちょうど胸の辺りに、少女の頭が重なる。 心音。 ふたつ分。 ここには、自分のほかに誰かが居る。 誰かが自分を認めている。 それが孤独でないということ。 どれ程心癒されたか。どんなに気持ち安らいだか。 感謝の思いも伝えられずに、明日、別れが訪れる。 獣は全身毛を逆立てた。 恐怖心だった。 恐怖心という手が身体の中で心臓を握り潰そうと力を込めている。 一人の牢は寒かろう。 一人の牢は暗かろう。 一人の牢は寂しかろう。 どんなものでも埋められない、大きな穴が空くだろう。 どんなものにも癒せない、深い傷が刻まれる。 明日を望まぬ日々になる。 今までと同じように。 心を忘れ、過去は薄らぎ、獣の本能だけで生きながらえる、老いた毎日。 それこそが恐怖だった。 取り戻した心を失い、惰性で生きる抜け殻の日々。 思い出させてくれたのはテュットだった。 獣は大きなものをテュットから与えられたのに、何も返さずおしまいになる。 そんなのは嫌だった。 「ねえ、あなたの名前が分かればよかった」 「お別れのときも、呼んであげられない」 少女のささやきが冷えた血液を温めるように感じる。 教えようにも言葉はなく、あったとしても、名前ももう忘れてしまった。 名づけてもらえたら、少しは。いや、いっそう、痛みは募る。 「ああ、悪い娘ね、わたし」 獣に頭を預けて、毛に顔を埋めて、テュットは言った。 「もう決めたのに。納得したのに。 わたし、幸せだよ。みんなのためになれること。 意味なく死ぬんじゃないってこと。 今までとっても楽しかった。もう何もいらないわ。 わたし、とても恵まれてた。 そのうえ尚、自分の思い通りになっているのに。 それなのに。ねえ――」 声は掠れて、ほとんど吐息だけの囁きだった。 だけど獣のよくきく耳は、声の全てを聴いていた。 少女の声は震えている。 少女の身体が震えているのだ。 テュットはそうして、呟いた。 「怖い」 声ではなかった。 呼吸でさえも。 唇の僅かな動きだけだった。 獣は全身でそれを感じた。 急に研ぎ澄まされた鋭敏な五感が周囲の全てを感じ取る。 少女の身体から感じられる、恐怖の匂い。 涙が流れたとしたら、その音さえも聞こえそうだった。 今なら牢の外の様子も分かる。 獣は起き上がって、少女を咥えて背に放った。 驚きの声を漏らしたテュットは咄嗟に背の毛にしがみつく。 丁度食事を運んできた獄吏たちが牢を空けたところへ獣の巨体を投げ込んで、投獄されてから初めて男は牢を出た。 地上へいたる岩肌の階段を駆け上り、洞窟の外へ。 風を感じた。 ――懐かしい匂い。 夕暮れの、ほとんど陽の沈んだ時間。 日差しをいっぱいに吸い込んだ木々や土から立ち上る、太陽の香り。 銃を持った看守が獣の姿に恐慌して、武器を携えているのも忘れて竦み上がる。 この町外れにも住んでいるらしい人々が、獣を見上げて一様に目を丸くし、次の瞬間には悲鳴を上げるなり逃げ出すなりして道を明けた。看守がようやく我に返って引き金を引く、そのときにはもう獣の姿はない。 目指すは城壁の外。 荒地広がる未知の世界。 町の中を横切った。多くの者が異形の獣に驚き顔を覆うか、首を伸ばしてもっと見ようとした。獣の印象が強く、その背にテュットが乗っていると分かった者は少ないだろう。 異変を悟った城の兵士達が銃を持って駆けつける。初めて見るだろう得体の知れない獣の姿に怖気づく。 無謀にも立ちはだかるものを獣は爪先でなぎ払った。 罰として与えられた体は人に対して有利だった。 獣は自らの体に初めて感謝した。 人間が無力に感じられる、圧倒的な力。何故獄吏はこの姿を課したのだろう。 地響きが町を揺らす。一歩ごとに石畳の道が歪む。 恐慌に陥った町の悲鳴が過去の記憶と結びつく。 蝋燭の火の中に現れたあの獄吏がどこかで嘆いていた。 『同じ過ちを犯すのか。 お前は罪を認めながら尚、愚かさを理解して尚。 同じ道を選ぶのか。 罪の獣、愚かな獣、人にあらざる下等な獣よ。 おまえは誘惑に負けたのだ。 人の姿に戻れるというのに。言葉を取り戻すというのに。 それを捨ててまで選ぶのか。罪を。 獣の姿を望むのか』 声は酷寒に似て、彼へ厳しく問う。 「そうだ、おれは、望む。 人の姿にならずともいい。 人の姿は脆弱だ。 獣の姿であればこの娘を連れて行ける。 そうだ、おれは、選んだのだ。 言葉が通じずとも、思い通わぬとも。 寄り添うことができるなら。 それが、おれには、幸いなのだ」 声なき言葉で男は応じた。迷いは無かった。 諦めたように獄吏の姿は風に掻き消えた。 男は走る。 獣の姿のままで。 男は走る。 家々を越え、田畑を踏み、石畳を割り、人を倒して。 もう二度と罪を許されることはないだろう。 再び人を傷つけて、たくさんのものを奪っていた。 人の姿と言葉を取り戻す機会を永久に失った。 男はそれを悔いないだろう。 たとえ少女のために、人を殺めたとしても。 これが救いと言うだろう。 正しいことだと、言うだろう。 男はびゅうびゅう風を切って走っていた。 町はもう遠い影。 辺りは夜の静寂に沈んでいる。 星がまるで黒い絨毯にこぼれた砂糖のよう。 いつしか城壁を飛び越え、林を越え、未知の荒野を走っていた。 風鳴りの中、不意に小さく何かが聞こえた。 風に混ざってわからなかった。 少女が静かに泣いていた。 |